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新潟EC協議会会員様ご紹介

           (有)メリーハウス 丸山 由記子様

新潟市駅南で、不動産仲介業をご夫婦二人で営んでいる。
ご主人の丸山栄一社長は起業をする前は、某不動産会社の営業マンを
していた。
バブル前後は景気の影響もあり、土地も建物もかなり売れた。
一方、奥様の由記子さんは美容室に勤務をしていた。
しかし、バブル崩壊後ご主人の勤務先が低迷し始めた。
奥様は美容師としての独立も考えていたが、これをきっかけに、ご夫婦で
話し合い、「美容師として色々と勉強をさせてもらったが、義父の看病と
義母の独立することへの反対もあり、主人(社長)に寄りかかりたくなった。」
と独立は断念した。
そして、奥様も「宅建」の資格を取得し、二人で 平成10年に起業した。

主な仕事内容は、不動産売買・賃貸仲介業、アパート賃貸仲介業。
起業当時は、会社の知名度が無いことに加え、バブル崩壊後で
土地の評価も低くバブル期の「土地は財産」という“土地神話”は
崩れていたので売上げは思わしくなかった。
そこで、会社の知名度を上げるために毎月「折込チラシ」を配布した。
チラシは、レイアウトを毎月変えることにしていたので考えるのが
大変だったという。
メリーハウスが知られるようになるまでは、丸山社長の以前の職場の
お客様や、奥様の美容師時代のお客様からの紹介や口コミのお陰もあり、
仕事が徐々に増えていった。

奥様は言う。
「紹介が主で借地や借家は結構の仲介件数もあったので売上げは良くも悪くも
ないが低迷安定かな。」「チラシのレイアウトや営業用の資料を作成するのは
私の仕事だったが、デスクワークはあまり好きではなかった。」と言っていた。

あとは、大家さんからのクレーム処理も少なくなかったという。
メリーハウスの仕事は借家や借地を仲介して契約までなのですが
契約成立からしばらくすると大家さんから連絡が入り
「お客様から壁紙が剥がれていた。玄関の開閉が悪い。排水が悪い。」
とか色々な苦情があるという。
メリーハウスとしては、入居のお手伝いはしていたが細かい修繕などは
大家さんがお付き合いされている大工さんや設備屋さんにお任せしていたの
ですが、大家さんから「忙しいので、お客様の対応を直接聞いて欲しい。」と
言われることもあった。
そのクレーム対応を確実に処理することで信用も得たという。
その反面、入居者の方から他にもかなり厄介な注文もあったとかないとか・・・

こんな時、奥様のストレス発散方法は、趣味である「音楽鑑賞」「家庭菜園」
だという。ちなみに、社長は「タバコ」が発散方法とのこと。
奥様の音楽鑑賞はもっぱら、「ショパン」。聞いているだけで落ち着くという。
家庭菜園は、ご自宅の庭を畑に変えて「桃やブドウ」を栽培している。
「今は、セロリがメインかな。」自宅の庭は畑に変貌したらしい。

奥様の好きな言葉は・・・
「私にも出来る」「失敗は恐れず、そこから教わるし、始まる。」
この二つの言葉をいつも想い考える。

この言葉があったから、次の商売としてインターネットビジネスは
「私にも出来る。」と想い、ある人から「クリスティ」さんを
ご紹介いただいたという。

奥様は、
「ホームページを作成した後は、更新等がとても大変だけど少しずつ憶えて、
この年になってもパソコンを人並みに扱える。」
ちなみに奥様は、今年で“還暦”である。

「やってできない事は無い。」
これからは、
「物件等を画面で見てもらうだけではなく、“お客様の声”をブログで作成して
クレームや質問等何でも寄せてもらったものを処理していく。」
「クレームこそ宝物。ちゃんと処理をして、そこで信用されると信頼に繋がる。」

日々、ご主人である社長と話し合い、
お客様に何が出来るのかを考えながら事務所に向かう。

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新潟百花辞店 対談集

2010年01月13日

新潟EC協議会会員様ご紹介

           (有)メリーハウス 丸山 由記子様

新潟市駅南で、不動産仲介業をご夫婦二人で営んでいる。
ご主人の丸山栄一社長は起業をする前は、某不動産会社の営業マンを
していた。
バブル前後は景気の影響もあり、土地も建物もかなり売れた。
一方、奥様の由記子さんは美容室に勤務をしていた。
しかし、バブル崩壊後ご主人の勤務先が低迷し始めた。
奥様は美容師としての独立も考えていたが、これをきっかけに、ご夫婦で
話し合い、「美容師として色々と勉強をさせてもらったが、義父の看病と
義母の独立することへの反対もあり、主人(社長)に寄りかかりたくなった。」
と独立は断念した。
そして、奥様も「宅建」の資格を取得し、二人で 平成10年に起業した。

主な仕事内容は、不動産売買・賃貸仲介業、アパート賃貸仲介業。
起業当時は、会社の知名度が無いことに加え、バブル崩壊後で
土地の評価も低くバブル期の「土地は財産」という“土地神話”は
崩れていたので売上げは思わしくなかった。
そこで、会社の知名度を上げるために毎月「折込チラシ」を配布した。
チラシは、レイアウトを毎月変えることにしていたので考えるのが
大変だったという。
メリーハウスが知られるようになるまでは、丸山社長の以前の職場の
お客様や、奥様の美容師時代のお客様からの紹介や口コミのお陰もあり、
仕事が徐々に増えていった。

奥様は言う。
「紹介が主で借地や借家は結構の仲介件数もあったので売上げは良くも悪くも
ないが低迷安定かな。」「チラシのレイアウトや営業用の資料を作成するのは
私の仕事だったが、デスクワークはあまり好きではなかった。」と言っていた。

あとは、大家さんからのクレーム処理も少なくなかったという。
メリーハウスの仕事は借家や借地を仲介して契約までなのですが
契約成立からしばらくすると大家さんから連絡が入り
「お客様から壁紙が剥がれていた。玄関の開閉が悪い。排水が悪い。」
とか色々な苦情があるという。
メリーハウスとしては、入居のお手伝いはしていたが細かい修繕などは
大家さんがお付き合いされている大工さんや設備屋さんにお任せしていたの
ですが、大家さんから「忙しいので、お客様の対応を直接聞いて欲しい。」と
言われることもあった。
そのクレーム対応を確実に処理することで信用も得たという。
その反面、入居者の方から他にもかなり厄介な注文もあったとかないとか・・・

こんな時、奥様のストレス発散方法は、趣味である「音楽鑑賞」「家庭菜園」
だという。ちなみに、社長は「タバコ」が発散方法とのこと。
奥様の音楽鑑賞はもっぱら、「ショパン」。聞いているだけで落ち着くという。
家庭菜園は、ご自宅の庭を畑に変えて「桃やブドウ」を栽培している。
「今は、セロリがメインかな。」自宅の庭は畑に変貌したらしい。

奥様の好きな言葉は・・・
「私にも出来る」「失敗は恐れず、そこから教わるし、始まる。」
この二つの言葉をいつも想い考える。

この言葉があったから、次の商売としてインターネットビジネスは
「私にも出来る。」と想い、ある人から「クリスティ」さんを
ご紹介いただいたという。

奥様は、
「ホームページを作成した後は、更新等がとても大変だけど少しずつ憶えて、
この年になってもパソコンを人並みに扱える。」
ちなみに奥様は、今年で“還暦”である。

「やってできない事は無い。」
これからは、
「物件等を画面で見てもらうだけではなく、“お客様の声”をブログで作成して
クレームや質問等何でも寄せてもらったものを処理していく。」
「クレームこそ宝物。ちゃんと処理をして、そこで信用されると信頼に繋がる。」

日々、ご主人である社長と話し合い、
お客様に何が出来るのかを考えながら事務所に向かう。

2009年09月25日

新潟EC協議会会員様ご紹介

(有) 寿し銭 代表取締役 藤田 英明 様

新潟県村上市瀬波温泉にて、寿司店を営んでいる。創業は、S.37年。
実父が寿司店を始めた。代表が後を継いだのは、3年程前。
実際に後を継ぐまでは、色々な経験をしてきた。
18歳、高校を卒業して東京の料理専門学校へ進学。
20歳、手巻き寿司専門店『秀』に入社。
23歳、先輩に誘われて和食専門店に修行を兼ねて入社。
当時は、バブル景気もあり、お客様も多かった。板前も8人居た。
24歳、実父より連絡が有り、「そろそろ帰って来ないか。」と言われたが、
まだ修行をするからと断り、東京で頑張ることにした。
住まいは、国道246号と環状7号線の交差点の角のアパート。
自動車の騒音が凄くて、時には暴走族が夜寝る頃に通ってかなりうるさかった。
しかし、慣れとは恐ろしいものでいつの間にか、その騒音が子守唄に
なっていた。
25~26歳の頃にバブルが崩壊して、店もお客様が激減。売上げも落ちて
板前も気が付くと4人になっていた。
30歳になり、板前も私を含めて3人になり「これでは店の将来が見えた。」
と思い、親父からも「帰って来い。」と言われていることもあり実家に
戻ることにした。
しかし、戻ってからも修行は続いたという。東京でやってきたことが実家(地元)
では通用しないのだ。
東京では寿司の握り方は“完璧”だと思っていた。
寿司の握りが親父のようにまだうまくいかないのだ。親父の寿司は『フワッ』と
している。
シャリ(ごはん)の隙間にほどよい空気がありシャリの上にネタを乗せて
握った寿司をお客様の目の前に置いたときに少し沈むという。
この「少し沈む」握り方が現在でも不足分なのか、親父から完璧なOKが
出ないという。
代表は、「親父を早く追いつきたいし、越えたい。」と日々頑張っているという。

寿司の舎利(しゃり)は、新米よりも古米の方が良いという。
「酢がご飯に染み込みやすい。とても良い舎利が出来るんです。」
ネタは、地元の海で獲れた魚介類を使用。
「魚を見ると良いか悪いかすぐにわかる。」「魚は、吊り網か底網で獲る。
吊り網で獲れた魚はツヤが全然違う。底網で獲れた魚は雲って見える。」
「それを見極めて仕入れをする。」
米は地元の岩船産コシヒカリ、水はアルカリイオン水、
海苔は九州の有明産を使用。
「やっぱり、お客様に“おいしい”と言わせたい。言われた時に充実感を感じる。」
陶器(お皿等)は一部、陶芸の修行をしている妹さんの作品の焼き物を使用している。

『寿し銭』の定休日は決まっていない。ほぼ休み無し。
決まっている休日は、8月初旬の週の一日と元旦の二日だけだという。
代表は、「親父はタフですね。とにかく休まないし、病気もしない。今年68歳とは
思えない。」「ちなみに私は、週一で忙しくない日に休みをもらっています。」
代表の休みの日は、もっぱら趣味のドライブに行くという。
地元の笹川流れを愛車の「BMW アルピナ B3」で流してくる。
「ドライブが私のストレス発散法です。」と言っていた。
好きな言葉は「継続は力なり!」「親父にも、お客様にも認めてもらうには
失敗と成功を繰り返し反省し、やり続けること!」そう言いながら、
「やっぱり早く親父に追いつきたい。」と言っていた。

「家族で来られたお客様の中で、特に気を使うのはお子様。」
注文を受ける時に“わさびの有無、好き嫌い”を聞いてなるべくやわらかく
食べやすいネタを選んで握る。
代表が小さい声で
「実は、子供の印象が良いと必ずその家族は、また来てくれるんです。」
と笑顔でいっていた。子供の一番人気は、“マグロ”の寿司だという。

現在、ホームページを利用してネット販売もしている。
寿し銭で使用している、お米(岩船産)、海苔(有明産)、塩(笹川流れ)、
“のど黒一夜干し(長崎県産)”を販売中だ。
「お客様は以前よりも減少しているし、単価も落ちている。」
「ネット販売が売り上げに繋がればと思っている。」

新潟寿司組合のセット商品名『極み』。「地元の寿司店と協賛して
季節ネタを使用し、一皿(10貫)3,000円で提供している。」結構、人気らしい。

代表に聞いた。プロの寿司職人とは?
『お客様のニーズにこだわり、時代に合った商品提供をし、遠方の方からも
選ばれる店作りを出来るのがプロ!』

私は、次にこの店に来る時は、仕事ではなく、客として顔を出したいと想った。

2009年08月11日

新潟EC協議会会員様ご紹介

          スタジオ イケダ 代表 池田 裕子様

胎内市内の国道7号沿いにて 4代目としてスタジオ(写真店)を営んでいる。
現在は、従業員二人と3名で運営している。
初代は、北海道で撮影の修行をして店名を『写真館』として始めた。
その後、2代目が体調を崩されて若くして亡くなられたのがきっかけで、
遠い親戚である実父が3代目として後継者となった。が・・・
実父は何も分からなかったので、ある写真店にて修行して仕事を覚えていった。

代表は仕事を継ぐ前に、写真大学に通っていた。
その写真大学を卒業して家に帰ってきた当時のことで、
仕事の大半は地元で腕の良い美容師さんとタイアップしての婚礼写真の撮影。
他には、学校の卒業アルバム作成やスタジオの記念写真、婚礼の多い
春、秋以外はとてものんびりとした営業内容だったが、売上げも順調に
伸びていった。

やがて、実父より仕事を認められて4代目として代表を任されることとなる。
ちょうど、写真が白黒からカラーに変化する頃だった。
当時は、女性カメラマンが珍しかった。
まだ男社会の中、引き継いでからは大変の連続だったという。
代表は言う。
「学校の修学旅行に同行させてもらう時に、同業者も必ず4~5人は居る。」
「同業者は男性ばかりで、宿泊先の部屋も一緒だった時は一人で廊下に寝た
こともある。」「気軽に話すことが苦手だったので、同業者とはもちろんお客様
ともなかなかうまくコミュニケーションが取れなかった。」

そんな中、資格を取得して努力し、技能グランプリに新潟県代表として出場。
全国3位に輝いた。とてもうれしかったという。
努力も実り自信にもつながり、いつのまにかコミュニケーションも取れるように
なっていたという。

しかし当時、高度成長期も終了するころ、
今で言う“団塊の世代”の地元での婚礼が激減。今現在も婚礼は少ない。
そんな時には卒業アルバムの作成や旅行の同行する仕事や商品の撮影、
スタジオ撮影、その他にも色々な仕事を探して売り上げに繋げたという。

時には近所の方から、「いいわよね~、毎回旅行に行けて。」
と言われたこともあったという。
代表は、「皆さんは勘違いしているのよ。私は撮影の仕事で行っているから、
のんびりと風景を観ている暇はない。観ているのは子供たちの顔だけ。」
「仕事絡みとなると、のんびりと風景を眺めていれないし、音楽の演奏会でも
写真を写していると曲はあまり聞こえていない」という。

代表の好きな言葉は・・・『一生懸命』『その人らしい写真を撮る』
「何事にも絶対は無い。撮る時も終わる時もタイミングがある。」
何をするにしても、中途半端では終われないという。
それは、仕事にも表れている。

「人間を撮影する時は、その人の一番良い角度やタイミングがあるんです。」
「一人として同じ人が居ないので、良い写真が撮れるまで撮らせてもらう。」
だが、お客様の顔を見ながら「疲れてきたかなぁ」のタイミングで終了するという。
お客様には『良い写真を!』と思う反面、『付き合わせてすみません』とも
思っている。特に、『七・五・三』の撮影は大変だという。

「風景も場所や環境によって撮り方は違うけど、写真は“光”の絵だから
その一枚を撮るために、その“光”を探したり“光”を待っていたりする
忍耐やひらめきが必要。」
但し、その日満足した写真を撮れたとしても、
「もっとこうしたら良かったとか、その道(写真家)の上にはいっぱいいるので、
自分の中での“完全”は永遠にない。」のだという。

代表に聞いた。プロのカメラマンとは・・・
『一生懸命にお客様に信頼してもらえる仕事をする。』
『自分が納得するまで“その人らしい”、その“光”を見つけて撮り続ける。』

私は思った。
代表が良い写真を追い続ける限り技術の向上は止まらない。

2009年08月05日

新潟EC協議会会員様ご紹介

(有) 斉藤商店 代表取締役社長 斉藤 行雄 様

胎内市工業団地内で、土木建設業を経営している。
大正14年 初代の実父が色々な職業を経て現在に至る。当時の社員10名ほど。
実家は農家だったが、豆腐屋、砂販売、土木業 etc…何でもやったという。
平成5年 44歳で、二代目として引き継いだ。
この当時、何をやっても利益が出た。
当時も今も主な仕事は、公共事業等で下水道の配管、田んぼの造成。
その他に、地元のゴルフ場や県外のゴルフ場等に砂を販売している。
実は、新潟県下越地区の砂は質が良いらしい。

斉藤社長は、先代から引き継ぐ前 今の仕事とは全然関係の無い、
“コンピュータ部品製造会社の一社員”だった。
30歳前にその会社を退職して、父親の会社に入社。
「前の会社は自分が好きで入社した会社だったが未練は無かった。」という。
そして、後を継ぐために少しずつ仕事をして憶えていった。
しかし、仕事は順調ではなかった。バブル崩壊後仕事が無く、低迷し続けた。
現在、社員は5名。
社長は話す。
『バブル当時のように仕事がガンガン来る訳がない。公共事業も規制があり
売上げとしては見込めない。』
『仕事は断らず全て請ける。自分の所で足らなければ回りを巻き込んででもやり遂げる。』
そこで、違う展開として、
『新しい事業展開でホームページを活用して売上げに繋げたい。』
『ホームページは会社案内で終わらないようにする。』
現在、HPをどういう方向で商売するかを勉強会に参加し相談しながら模索中だ。

斉藤社長はもうすぐ還暦を迎える。趣味は「お茶」と「ゴルフ」。
「ゴルフ」は、金谷プロに教わりスコア80を切ったこともある。
但し、現在「ゴルフ」は控えているらしい。
『売上げを上げなければならない時にゴルフは後回し。』
「お茶」は、“宗偏流”家元は神奈川県鎌倉市。『歴史を知るにはとても良い。』
と笑顔で語っていた。
「二つの趣味は仕事も兼ねている。営業でもある。」
「お茶も色々な職業のお偉いさんたちが来るので色々な話が聞ける。」
私も「お茶」の世界に少し興味が湧いた。
斉藤社長は、国に対して
『今後、国政はどのように考えて変えるのか?向かうのか?』
『やはり国が動かねば、人も仕事も動かない!』
今後の国の考えや動向を懸念されていた。

斉藤社長はこれからも経営理念を追求して行くという。
(有)斉藤商店の経営理念は・・・
『お客様第一主義』『世の中の役に立つ』
・何の仕事でもお客様がいるから商売として成立する。
・自分が世の中に何が出来るのか日々考える。

社長は、これらを実現しようと想いながら毎朝、事務所に向かう。

2009年07月10日

新潟EC協議会会員様ご紹介

新潟EC協議会会長 羽田 真澄様
2009年2月 新潟EC協議会が設立された。
現在、新潟EC協議会の会長を務められている ㈱倫(とも) 羽田真澄社長。
美容室TOMOとリラクゼーション美容室Luxe(リュクス)と
その2階でインターネットビジネス(Web shop)を胎内市内で経営している。
羽田社長の前職はホテルマンとして接客業をしていた。
約20年前のバブル当時にホテルマンを退職。母親の経営する美容室の2階で
以前からやりたいと思っていたインターネットビジネスを始めた。
羽田社長は「当時、インターネットビジネスは珍しく、
今現在もホームページ作成でお世話になっているクリスティさんと一緒に
頑張って勉強した」という。
経営を始めて一番気を遣ったのは、商品の梱包と発送するとき。
梱包は、商品一つ一つをエアクッションで包みダンボール箱に詰めて
箱を振っても音がしないように、ずれないようにした。
ダンボール箱は角を折り女性が開けやすいようにした。
「女性は爪が長いので折れないように」と・・・。
その後、お客様よりお礼のメールが来るという。
楽天レビューには、約200通も貯まっている。
羽田社長は「お客様の評価は5段階評価で4.7、そのメールが来る度に勇気を
もらえるし頑張れる。」という。
発送も当時は一人で郵便局に持ち込んでいた。
注文が来るたびに喜び嬉しかったが発送はその分大変だった。
今では、発送業者と直接交渉して集荷は頼めるようになった。
当日、PM4時までに入った注文であれば、その日に発送して翌日には
届けるようにしている。
つい最近、多い時で200箱を数えた日もあったという。

やがて、実家の2階も狭くなり、今現在の場所に移転。2004年1月よりオープンした。
朝は5時に起きて、7時には出社する。
羽田社長は言う。「最初の2年間は休めなかった」 
「休むのが怖かった。休むと注文が来なくなるような気がした。」
現在は、毎日の朝礼時に社員全員のお客様情報を出して共有している。
「優秀な技術者(美容師)が優秀な経営者とはいえない。」
実は羽田社長、美容師の資格を持っていないのだ。

会社の経営理念は「正常進化」「業態変化」。

「正常進化」とは、今までにお客様が感じたことのない空間を味わってもらう。
TOMOはお客様への気遣いと技術の空間を感じてもらう美容室。
Luxeも美容室だが、他人の目を気にせずリラックスできるように個室にしている。
Luxeとは“ごほうび”という意味で、頑張った自分に対して“ごほうび”をと
リラックス空間をお客様に提供している。

「業態変化」とは、インターネットビジネス(Web shop)。全国から注文が来る。
今までにない商売で色々な商品を提供できる。現在お客様のリピーターは95%にも及ぶ。
羽田社長は語る。 「Web shopの原点は接客業だ」と。「前職のホテルマン時代の接客業が現在に生かされている。」
羽田社長はまだ進化と変化を求めている。
「お客様の評価は高いとは思っていない。
商品を一つずつ包むと見た目が良くない。もっと良くするには・・・」

私は思った。
羽田社長が疑問を求める限り、
止まらずに進化して、どこまでも変化するのだと。
そして、この先も見続けたいと・・・


新潟EC協議会役員 富樫 寿彦様
現在、胎内市でホームページ作成やWeb shop等、
様々なインターネットビジネスを手がけられている (有)クリスティ 富樫寿彦社長。
起業されてから約10年、会社を休んだことがない。
「ユーザー(お客様)からの質問やクレーム等、
いつシステムがダウンするとも限らないから・・・」
前職はスキーを主力とするスポーツウエアーメーカーの研究機関に勤務。
次長職を任されていた。その時からコンピュータシステム化の責任者として
指揮をとり、色々な課題に対してインターネットの導入を含めて全て自力で
答えを出していった。
その中で勉強を進めていく内に、自分の手でホームページの製作やデザインが
できることに自信を持つようになる。
これも創業への一つのきっかけだという。

自分の手で進めた情報化による研究機関の生産効率向上が
人員整理(リストラ)という結果になってしまった。
そこで、当時の富樫氏は
『コンピュータ化で生産効率を向上させ、その結果空いた時間を
それぞれ個人が創造的な活動のために使うことによって、
企業を活性化できる。情報化によってリストラを行い必要な人間だけを
残せばいいというもではない。』という信念の基、
次第に自分で会社を経営することで信念を貫こうと思い同会社の
仲間達とともに新事業(クリスティ)を興すことを決意した。

現在は胎内市内を中心に県内外を問わず
「ホームページ製作、Web shopの商品の選択」
今は特に“ブログ”に力を注いでいる。
『ホームページは作成すると一頁は一頁にすぎない。
ブログは一頁作成するとその内容によってはコメントや質問が来る。
結果、そのコメント等もホームページ上と同じ一頁となり
どんどん増えていくため他社のホームページよりも見てもらえる確率が
増える。』

富樫社長は起業当時、不安だらけだったという。
「創業にこぎ着けるまでに、経営面での経験や知識に不安があった。」
「創業当初の資金不足が懸念された。」
「新規事業なので、受け入れられるかどうか不安だった。」

当時お客様の開拓方法は企業への飛び込み営業。
そこで社員の一人に聞いた。
『日に100件くらい訪問して名刺を渡すと“帰れ!”と投げつけられたこともありました。
受け取ってくれただけでも嬉しかったですね。』
と当時を振り返っていた。

当時は、富樫社長自身が簿記の勉強、資金繰りの方法、
ある程度新潟県の下越周辺地域の特産品を調べ、どのような情報発信を行うか
等の戦略を練った。
今や新潟県下越地区を中心に県内外でユーザー数は500件を超えているという。
富樫社長は、
 『自分で自分を褒める行為は、結果として自身の価値や限界を下げてしまう。』
自分以外の誰かに『君達は、よく頑張っているね。』といわれた時が嬉しい瞬間。
そして、
『考えていたことが実際に起こる時、達成感を味わうことができる。』という。

富樫社長に聞いた。
・これからのインターネットでの販売戦略とは?

『横の繋がりを深める事が重要、情報や事例を交換・共有し合う。』
『景気が悪くても、必要なものは欲しいはず』
『だからそのターゲットを考えてその層に向けた情報発信や
購買意欲を掻き立てるホームページにしていかなければいけない。』

これからもクリスティの進化は続く・・・